ニュースと噂

ニュースってあてにならないよなー。
ふとそんなことを思った。

「AさんがBさんのこと〇〇って言ってた」「みんなもそう言ってるよ」と、噂好きのCさんから聞かされるのと似た印象を受ける。
「どの立場のどんな思想の誰が発信しているのか」によっても、かなり見方が異なるし、情報の内容も驚くほど違っている。

(まぁそれでも、発信してくれている人がいるから、情報が得られるんだけれど。)

今回は、ニュースをはじめとした情報を取り入れる中で、大切なことを書いていきたいと思う。

耳をすませているおかっぱミユキの写真。耳の横に手を当てて、何かを聞き取ろうとしている。

テレビ離れ

つまらなくて見なくなったので、3年前にテレビをメルカリで売ってみた。
なかなかいい金額で売れたし、部屋が広くなったおかげで、掃除も楽になって快適だ。
NHKの受信料も、払わなくてよくなった。
良いことだらけだ。

テレビという媒体では、発信者が一方的に発信するスタイルのため、視聴者にはタイムリーな発言権がない。
見方の偏った事実と異なる情報を発信をされたとしても、「それ違います」と、すぐに異議を唱えることができないのだ。
そうこうしているうちに、誤った情報は世界中に広まる。

仮に、異議を唱えてそれが認められても、アナウンサーが形式的な謝罪をして「なかったこと」にされがちだ。
誤った情報を流された人の名誉は、裁判でもしない限り、挽回されることは難しい。

これでは非常にアンフェアで、視聴者に向き合っていない印象を抱いてしまうため、信憑性に欠ける上に、まったく面白みがない。
コメンテーターの個人的な意見を、さも国民の総意かのように流し、印象を操作しようとしているようにも見えてしまう。

同じことが新聞やラジオにも言えるだろう。
「若者のテレビ離れ」と耳にすることもあるが、テレビ離れするのは、ごく自然なことだ。

リアルな声

ニュースを見るとしたら、インターネットだ。
いつもスマホでサクッと読む。
インターネットのいいところは、ニュースを読んだ人の意見が読めるところだ。

Twitterは特に、めちゃくちゃリアルな声が「置かれて」いる。
様々な立場や思想の、それぞれの視点から、「ここからはこう見えるよ」と教えてくれる。
時には現場にいた当事者の声が、時には専門の有識者の声が、画像と共に贅沢に書き込まれている。
発信者のプロフィールを見れば、どのような生き方をしていて、どのような思想を持っているか、簡単に知ることができる場合もある。
発信者のプロフィールがフェイクの場合や捨てアカウントの場合もあるが、そういった情報は「信憑性に欠ける」と判断できる。

つまり、「なぜ、この人はこのような言葉を発信しているのか」と背景まで考察することが可能なのだ。

フェイクニュース

皆がスマホを持ち、当事者も情報を発信できるようになってからは「フェイクニュース」という言葉を耳にするようになった。
おそらく、はるか昔から「フェイクニュース」なんて珍しくなかったのではないかと思う。
発信力のあるメディアの情報しか得ることができなかったために、「フェイクニュース」と認識されなかっただけで。

今は誰もがインターネットで発言できる。
その分、ふざけ半分で嘘の情報を流布する人もいるけれど、広い視野でフラットな捉え方をすれば、どこかに違和感を抱くので、だまされることは滅多にない。
少なくとも、私の周りで「あの人がだまされた」という話を聞いたことはない。

現代社会では、嘘はだいたいバレるのだ。

まとめる

「誰かの視点で切り取った一部の情報」は、「ふーん」くらいに思っておくか、他の視点の情報もなるべく沢山取り入れて、総合的に「自分なりの」判断をするしかない。

大切なのは「あの人がこう言っていたから」ではなくて、「自分がどう捉えるか」。

いずれにせよ、ひとつの情報を盲信するのは非常に危うい。
噂話に踊らされる時代は、過去のものにしたい。